【ココ・シャネルの生涯】ガブリエル・シャネルの功績と伝説的名言

世界的ブランド「シャネル」の創業者、ガブリエル・シャネル。
彼女の本名こそが、現在人気のフレグランス「ガブリエル」の名前の由来にもなっています。
「ココ・シャネル」の愛称で知られる彼女は、女性のファッションをコルセットから解放し、「女性の生き方」そのものに革命を起こした伝説的な人物です。
本記事では、不遇な幼少期から成功、そして70歳での劇的なカムバックまで、彼女の波乱に満ちた生涯と、現代にも続く4つの偉大な功績、そして人生を切り開いた名言を解説します。
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創業者「ガブリエル・シャネル」とは?波乱に満ちた生涯
ガブリエル・シャネルは別名ココ・シャネルとも呼ばれるフランス出身のファッションデザイナーであり、シャネルの創業者です。
ガブリエル・シャネルの生涯は、決して平穏なものではありませんでした。
孤児として育ち、挫折を経験し、戦争による亡命まで経験しながらも、彼女は自身の信念と才能で世界的なブランドを築き上げました。
孤児院や修道院で暮らした幼少期
シャネルは、1883年8月19日フランス南西部ロワール県ソーミュールの慈善病院に行商人である父アルベールと洗濯婦であった母ジャンヌの子供として生まれました。
他に5人の兄妹がおり、一家で一部屋の住居に暮らしていたといわれています。
そしてシャネルが12歳のときに、母のジャンヌが結核で亡くなり父のアルベールに捨てられたのです。
その後は、孤児院や修道院において厳格な規律のなかで育ちました。
「ココ」の愛称の由来と歌手への挫折
18歳で修道院を出たシャネルは、孤児院時代に6年間裁縫を学んだ経験を生かし、ムーランで仕立て屋として働き始めます。
また、副業でラ・ロレンドというキャバレーで歌を歌ってチップを集め収入につなげていました。
このキャバレーで歌っていた曲に「ココを見たのは誰?」という歌があり、これが彼女の代名詞となる「ココ・シャネル」という愛称の由来になったと言われています。
シャネルは、キャバレーで人気者になりますが満足いかず、芸能人になることを夢見て温泉リゾート地のヴィシーへと拠点を移します。
オーディションを何度も受けるものの、容姿ばかり評価され歌は評価してもらえず、仕事は全くもらえなかったのです。
レッスン費用を稼ぐため、グランド・グリーユで治癒効能のあると有名なヴィシーの水をグラスに注ぎ分けるという仕事を始めました。
しかし、芸能や舞台で成功できないと悟ったシャネルは、ヴィシーでの滞在を終えると同時にムーランへと戻ったのです。
バルサンとカベルとの関係
シャネルの人生に大きな影響を与えたのは、バルサンとカペルの2人の男性といわれています。
バルサンは、フランス軍元騎兵将校かつ繊維業者の後継ぎ息子でした。
シャネルが最初に歌を歌ったムーランのラ・ロトンドで出会い、プレイボーイとして名高いバルサンの愛人となったのです。
上流階級であるバルサンの影響で、美食や歓楽を与えられたシャネルは、上質な価値観や知性を身につけました。
この経験は、シャネルのデザインにも大きな影響を与えています。
その後シャネルは、バルサンの友人であったカペルと出会い、関係を持つようになりました。
カベルはイギリスの富裕層で、シャネルをパリのアパルトマンに住まわせて、最初の店舗の出店費用も負担してくれたのです。
カペルは、とてもおしゃれな服装でシャネルのデザインセンスに大きな影響を与えた人物といわれています。
カベルは別の女性と結婚しますが、シャネルとの関係を切ることができず、その後事故死しました。
シャネルは、カペルのことを「私が愛したただ一人の男」と語るほどでした。
帽子屋から世界的ブランド「シャネル」へ
シャネルは、愛人のバルサンと暮らしているときに、バルサンの家に出入りする多くの女性のために帽子をデザインしていました。
当時のシャネルにとっては暇つぶしの一環ではありましたが、バルサンやカペルからの勧めもあり、婦人用帽子職人の資格を取得します。
そして、パリで当時最も栄えていたとされるカンボン通り21番地にブティック「シャネル・モード」を開店しました。
最初は、帽子のみを販売していましたが、有名な舞台女優のガブリエル・ドルジアがシャネルの作った帽子を着用したことで、一気に世界的ブランド「シャネル」への道が開いたともいわれています。
ピカソなど世界的芸術家との交流
シャネルは徐々にビジネスを拡大し、帽子以外にも洋服やアクセサリー、ジュエリー、香水などの販売も始めました。
店舗の敷地も拡大し、徐々に有名になったシャネルは交友関係がどんどん拡がっていきます。
シャネルは、世界的芸術家であるピカソやジャン・コクトーとも交友関係がありました。
また、ケンブリッジ侯爵の隠し子といわれたヴェラ・ベイト・ロンバルディの紹介により、シャネルはイギリスの最上級貴族社交界に加わることとなります。
このときシャネルは40歳で、孤児院で育ったとは思えないほど華やかな人生を送っていました。
第二次世界大戦によるアトリエ閉鎖と亡命
1935年に、シャネルの会社は4,000人を雇用する大企業になっていました。
しかしその後、1939年に始まった第二次世界大戦や従業員によるストライキによって、シャネルは突然ブティックのみを残し、作業場のアトリエを閉鎖しお針子全員をクビにしたのです。
アトリエを閉鎖した際、シャネルは「今の時代はもう、女性たちが服に構っている場合ではない」と告げていました。
あまりにも突然の行動だったため、強い批判を浴びることとなります。
しかし、シャネルは断固としてアトリエを再開することを拒否しました。
その後1940年、ドイツ軍がフランスを占領した際には、シャネルはドイツ軍人が居住先と選んだホテル・リッツに住みます。
そしてドイツの諜報活動に関与しました。1944年にパリが解放されると、シャネルはホテル・リッツで逮捕されフランスの粛清委員会から尋問されてしまいます。
数時間で解放されたものの、シャネルはドイツの諜報活動に協力し犯罪者とされることを恐れ、スイスに亡命しました。
70歳での伝説的カムバックと晩年
スイスに亡命後、しばらくして第二次世界大戦が終結しましたが、シャネルはフランスに戻りませんでした。
しかし、70歳を過ぎ15年振りにファッション業界に復帰したのです。
復帰した1954年は、すでにディオールやバレンシアガなどの男性デザイナーが認められる世界となっていました。
シャネルは新作ドレスを出しますが、「1930年の亡霊」と批判され、全く相手にされなかったのです。
このときシャネルを励まし、全面的に金銭面で支えたのが、長年敵だったピエール・ヴェルテメールでした。
ドレスを発表した1年後、シャネルはフランスではなくアメリカで爆発的な人気となり、モード・オスカー賞を受賞します。
「彼女は71歳にしてモード以上のものをもたらした。それはもはや革命である」とアメリカのファッション雑誌で絶賛され勢いを取り戻し、シャネルは人生を終える87歳までファッション業界に携わったのです。
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ガブリエル・シャネルが残した4つの功績
ガブリエル・シャネルは、当時の窮屈な女性の装いを一変させ、活動的で自由なスタイルを確立しました。
彼女が生涯を通じて生み出した、ファッション史における偉大な4つの功績を解説します。
ジャージー生地
シャネルは、帽子屋として成功したのち、当時男性用の下着の素材とされた「ジャージー生地」を使ったファッションを作りました。
サテンやシルクの高級生地に慣れていたパリの人々はショックを受けたといわれています。
しかし、第一次世界大戦により高級生地を手に入れることが難しくなってしまいます。
そんななか、シャネルの開発したジャージー生地のファッションは安く着やすかったことで、長い時を経て多くの人々に受け入れられるようになりました。
リトル・ブラック・ドレス
1900年代前半のフランスでは、黒は葬式や未亡人が着る服と根強い思想が刻まれていました。
そして華やかな女性は赤や青、緑など鮮やかな色のドレスを着るべきとまでいわれていたようです。
しかしシャネルは、「黒色の洋服はシンプルかつエレガンスなカラーとし、日常的に身につけるべき」という考えにいきつきます。
そして、リトル・ブラック・ドレスが作られました。『ティファニーで朝食を』に出演していたオードリー・ヘップバーンも着用しています。
ツイードのスーツ
シャネルは、当時スーツは男性が着用するものといわれる時代のなか、女性のためのスーツを制作しました。
今現在も根強い人気のシャネルの代名詞ともいわれるツイードのスーツです。
なぜ女性は窮屈な洋服ばかり着なければならないのかという、シャネルらしい斬新な疑問から生まれました。
シャネルが70歳を過ぎてファッション業界に復帰し、新たにスーツを発表しますがフランスでは受け入れられませんでした。
しかし、国境を超えアメリカの女性に普及したシャネルのツイードスーツは、世界的に認められる大ヒットとなったのです。
2.55バッグ
シャネルの2.55バッグは、1955年2月に発売されたことでその名前がついたブランドを象徴する存在の商品です。
発売当時、女性のもつバッグはクラッチバッグが主流の時代で実用性の高いバッグは少なかったといわれています。
男女格差も大きく、発売当時は「品のないバッグ」「はしたない」などといった声も多く、フランスでは批判が大きかったようです。
しかし、抜群の使いやすさとおしゃれなデザイン性によりすぐに人気に火がつき、現在でも多くの女性の憧れとなっています。
2.55バッグは、多くの女性が自由に生きることができるようなファッションを常に生み出してきたシャネルのアイコンとなったのです。
【時代を超えて愛される】ココ・シャネルの伝説的な名言
ガブリエル・シャネルは、その波乱の生涯から多くの哲学的な言葉を残しています。
彼女の言葉は、ファッションの枠を超え、現代を生きる女性たちの指針となっています。
「ファッションは移り変わるが、スタイルは永遠である。」
流行は一時的なものだが、その人自身の生き方や内面から滲み出る個性は、時代が変わっても色褪せないというシャネルの信念を表した言葉です。
表面的な流行よりも、自分自身の「スタイル」を大切にするよう、現代の女性たちに問いかけています。
「最も勇気のある行動は、自分で考えること。声に出してそれを表明すること。」
不遇の環境から自力で道を切り開いたシャネルらしい、独立した精神を象徴する名言です。
当時の女性の地位が低かった時代において、自身の創造性を表現し、批判を恐れずに革新を続けた彼女の生き様そのものです。
「美しさは、内面から始まる。」
装飾や見た目の華やかさだけでなく、内面的な自信や知性こそが真の美しさである、というメッセージです。
これは、彼女自身が上流階級の社交界で学び、上質な価値観を身につけた経験から生まれた哲学と言えるでしょう。
おわりに
シャネルの創業者「ガブリエル・シャネル」は、87年の生涯を通してファッションに携わり、大きな功績を残しました。
また、当時の男女格差社会では生み出すことが難しいファッションを発売したことで多くの批判を受けたことも事実です。
しかし、シャネルは現代でも多くの女性に支持される世界的ブランドとなりました。
シャネルの生涯は、決して平凡とはいえず波乱の人生でしたが、そんな人生を歩んだからこそ生まれた奇跡のブランドともいえるのではないでしょうか。
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